本能寺の変が成功した理由。明智光秀の戦略とは

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日本史最大のミステリーといわれる本能寺の変。明智光秀が織田信長を討ち取った理由は諸説あり真相はわかっていません。

今後「だから私は信長を討ち取った」みたいな光秀の日記でも出てこなければ解明されないのだろうと個人的には思っています。

そこで今回は、明智光秀が本能寺の変を起こした理由は置いといて、成功した理由についてみていきたいと思います。いつかのための参考のために。

本能寺の変については諸説ありますのでそのなかの一つかも程度としてご覧ください。

決行した時期がベスト

まずは本能寺の変が起こった頃の日本の状況をみてみましょう。政治の中心であった畿内と経済の中心だった堺を抑えていた織田信長に権力と財が集まりつつある状況でした。

とはいえ、まだまだ敵は多く方面軍を組織して各地で戦闘を繰り返していました。畿内周辺には信長に対抗しうる勢力がいなかったことと各方面軍に兵力を分配していたことで京都周辺には大きな軍勢はなく軍事的な空白地帯となっていたのです。

そんな京都に僅かな護衛で信長が滞在していたのでした。当時、各方面軍が派遣されていたのは北陸、関東、四国、中国地方と京都から比較的遠い場所です。そこを飛び越えていきなり襲われることはないという油断があったのかもしれません。兎にも角にも信長の周りには僅かな護衛しかいなかったのです。

大きな反撃をされる心配のない状況は光秀にとって絶好のチャンスでした。しかもこのとき、光秀は中国地方で毛利と戦う秀吉の援軍に行けと命じられていたので大軍を動かしても怪しまれることはありませんでした。

まさにこのベストなタイミングを光秀は逃さなかったのです。

決行した時間がベスト

光秀が本能寺を襲ったのは朝方でした。信長は騒ぎで起きたとも顔を洗っていたともいわれています。いずれにしても本格的な活動をする前でした。人間がもっとも油断するのは朝方だと思うのです。まさにその時でした。

そのため信長は寝巻き姿でした。かたや光秀の軍勢はもともと援軍に行くつもりだったので鎧兜で準備万端やる気満々の格好です。多勢に無勢のうえに丸腰。信長に同情すら覚えますね。

徹底した情報統制作戦

光秀は厳しい情報統制を敷いていました。謀叛のことはわずかな家臣にしか伝えておらず、さらには裏切らないという約束文を出させたうえに人質までとるという念には念をの慎重ぶり。

秀吉の援軍に行くと言って集められた軍勢は一旦は中国地方を目指します。途中、あの有名な「敵は本能寺にあり」と本当に叫んだかどうかはわかりませんが京へと進路を変更していきます。

大軍が京へと向かっているのを不審に思う民が通報しないように怪しい者は切り捨てよと命じたといいます。さらには、京へ入ってからも怪しまれないように軍勢を分散して本能寺を取り囲みました。

兵たちには最後まで信長を討つことは知らされませんでした。そのため、多くの兵は信長ではなく徳川家康が敵だと思っていたようです。自分が誰と戦うのかもわからずに参加していたのです。

徹底した情報統制で信長に気づかれる事なく本能寺を襲撃したのでした。

まとめ

知将と呼ばれた明智光秀。まさに今しかないというタイミングで本能寺の変を決行し成功させたのでした。状況を見極めて情報を管理する。今回の場合の勝因はこれかなと思います。

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